東北大学総合学術博物館

THE TOHOKU UNIVERSITY MUSEUM

近代地質学の時代

日本列島がどのようにして現在の姿になったのでしょうか?

これまでに説明した深海探査、プレートテクトニクス理論の構築なくして日本列島の生い立ちを語ることは不可能と言ってよいでしょう。今回は、その歴史についてたどってみます。

古代より、世界中の人々は、大地や地球、宇宙がどのようにしてできたのか思索を重ねてきました。日本で言えば、奈良時代に編纂された古事記や日本書紀には有名な国産み(くにうみ)の神話があります。

古事記に書かれた国産みの神話では、天上の神々から神託を受けたイザナギ、イザナミという男女の神が、天と地の間に架かる天浮橋(あまのうきはし)に立って天沼矛(あめのぬぼこ)を海にさし下ろしてかき混ぜて矛を引き上げると、矛の先から滴り落ちる潮が積もり固まって淤能碁呂島(おのごろじま)という島が誕生したと記述されています。その後、男性神イザナギと女性神イザナミは夫婦となり、イザナミは現在日本列島を形成する島々を産んでいったというのが、古代の人々の日本列島形成の物語でした。

16世紀以降、西欧でつちかわれた自然科学的概念によって日本列島がどのようにして形成したかという探究は、江戸時代までの日本の歴史の中では、誰もが知る歴史書には認められません。

しかし一方で、地質学に関連する分野である、鉱山や土木分野は大きな発展を見せており、現代人もその恩恵を受けています。

例えば、奈良時代聖武天皇の時代に造られた東大寺の大仏表面には金を水銀に溶かすマルガム技術が使われています。また、日本刀を作成するための製鉄技術としてたたらは非常に有名です。土木で言えば、戦国時代の終わり頃から江戸時代にかけて、日本の大河川の多くでは、日本史上でも有名な戦国大名主導のもと、水害回避と水運を主な目的とした大規模な治水工事が行われます。例えば、豊臣秀吉は淀川の支流である宇治川と巨椋池を切り離し、武田信玄は富士川支流に信玄堤と呼ばれる堤防を築き、伊達政宗の意志を引き継いだ仙台藩は北上川の流路変更を行い、徳川家康は利根川を東側へ、荒川を西側へ移動させるという大事業を行いました。これらの工事は、新田開発と水運の発展という当時の経済基盤強化を促し、同時に現代に通じる街づくりの基盤ともなりました。

上記の発展は、岩石や鉱物の分類、地形の把握という前提なくして成り立つとは考えにくく、地質学という学問体系はなくとも、社会インフラ発展のための知識は当時の日本社会にも蓄積していたことがわかります。

次のページからは、現代の地球観を生み出した地質学の物語をひもといていきます。

1