収蔵資料 「クレオニセラス」 アンモナイトの縫合線

平成14年度公開講座 「かたちの探訪」

 今年度の総合学術博物館公開講座「かたちの探訪」は、2003年2月15日から3月15日の毎週土曜日に、全5回のシリーズとして東北大学理学部付属植物園にて開催されました。本年度は、総合学術博物館の研究の一つである“形態”すなわち“かたち”をテーマとし、5名の講師が様々な物のかたちを科学することの面白さや意義について講演しました。90名以上の市民の方々が受講し、4回以上出席の受講者には修了証が渡されました。

第1回 「植物にみるかたち」
総合学術博物館長 理学研究科教授 鈴木 三男

鈴木 三男教授 生物の本質は「生きていること」と「多様であること」 である。多様ということは十人十色、みんなすこしづつ違うということで、生物の場合、かたちが違っていることが多い。かたちが違えばそのかたち(=構造)が担っている機能の発揮のされ方が違い、異なった生物はすこしづつ違ったかたちをもつことにより、すこしづつ違った生き方をしていて、この実に多様な地球生物の世界を作っている。植物の世界で目立つのは大きな植物体を作る樹木である。樹木を我々が認識する場合、いちばん始めに目に飛び込んでくるのが樹の形、樹形である。木の種類が違えば違った樹形をしていることは誰もがよく分かることだが、どの様なかたちをしているから我々が違った樹形と認識することができるのか、ということになるとなかなか難しい。ここでは特異な樹形の例を挙げて樹形の成り立ちを考えてみた。
1. 植物の成長はブロック建築  植物細胞が動物細胞と最も異なる点は光合成をする葉緑体をもつことと細胞壁という厚い丈夫な壁をもつことである。細胞はちょうどレンガブロックのようなもので、これらが積み重なって植物体を作っている。出来上がったブロックはもうかたちを変えられないので、新たに細胞が作られ成長できる部分は枝と根の先端、そして太るための樹皮の部分に限られる。動物の成長が風船を膨らますように全体が大きくなるのに対し、植物は先端に次から次へとブロックを積み上げて成長する。樹木の枝は先端は伸びるものの既に出来上がった部分は伸びることはない。だから樹形の成り立ちは、母枝から子枝がどの様についているかを解析し、その積み重ねとして理解することができる。
2. リケア・パンダニフォリアのヤシのような樹形はどの様に出来上がるか?  南半球のタスマニア島にはリケア・パンダニフォリア(Rhicea pandanifolia )という奇妙な植物がある。何が奇妙かといえばれっきとした双子葉植物のくせに、樹形はどう見ても単子葉類のヤシなどにそっくりである。どの様にしてこのような樹形を作るのかを茎頂(いわゆる成長点)を解剖して調べてみた。その結果、ケヤキなど普通の双子葉類の樹木では茎頂での細胞分裂は一定程度しか起こらず細い茎を作り、後から形成層という横木材組織を大量に作る分裂組織の活動で下ほど太く、上ほど細い幹を作るのに対し、この植物では茎頂での細胞分裂がずいぶんと長い間活発におこって太い茎を作り、その後は形成層の活動はあまり活発でないため上から下まで同じような太さの幹が作られるのと、枝分かれをしないことからできあがっていることが分かった。このような樹形をとることがこの植物が生きてゆく上でどれほど有利なのかは未だよく分かっていないが、タスマニア島でこの植物の祖先が適応放散する過程で、環境にうまく適応したものとして生まれたと考えられる。

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第2回 「生物進化はかたちにあらわれる」
総合学術博物館教授 永広 昌之

永広 昌之 教授 古生物(化石)はその"かたち"(形態)に基づいて分類される。殻の形態、表面の装飾、内部構造など。私たちは古生物を「かたち」で分類し、その年代的な変遷をもとに、生物の進化について考えてきた。進化とは(環境に適応し、生きぬくために?)かたちを変えることであった。化石にあらわれた進化の跡、かたちの変遷の例をアンモナイト化石にみよう。  アンモナイト類は、古生代中期に現れて、古生代後半~中生代の海に栄え、中生代末に絶滅した頭足類グループで、巻いた殻をもっていて、殻の中には多数の仕切(隔壁)で区切られた部屋(気室)がある。隔壁は、中央部から端(殻)へ向かって次第にシワ状の起伏を増し、殻と接する部分(殻をはがした時に表面に現れる模様=縫合線)がこの隔壁のもっとも複雑な断面となっている。隔壁のかたち=縫合線は、進化とともに各グループごとに複雑化してきた。古生代型のゴニアタイトの縫合線は、少数の単純な山と谷からできている。三畳紀型のセラタイトでは谷に細かな刻みが多数入り、中生代型のアンモナイトでは山と谷の両方に複雑な二次・三次・・・の刻みが入り、菊の葉のような模様を呈する。縫合線のかたちは各種や属ごとにおどろくほどよく似ていて、アンモナイト類の分類の基準のひとつとなっている。また、ある系統の中では、進化とともに次第に複雑化する傾向(定向進化)がある。例えば、ペルム紀中期から後期に栄えたサイクロロバス科のアンモナイト類では、次第にサイズが大きくなったり、球形の殻から次第に扁平な殻へと変化するなどのかたちの変化に加えて、縫合線の複雑化が見られる。ペルム紀中期の前期のものの谷の数は3~5で、谷の部分に入る刻みも比較的単純だが、中期の後期になると、谷の数は8を越え、刻みも複雑になる。ところがペルム紀最後期のチャンシンゴセラスでは、退化傾向を示して、逆に谷の数は減り、全体に単純化している。

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第3回 「『かたち』は地形の『一つの』属性である」
立正大学地球環境科学部教授(元東北大学教授)田村 俊和

田村 俊和教授よく知られた地形として,デルタを例にとってみましょう.この名称は,古代ギリシャのヘロドトスが,ナイル川最下流部の2つの大きな分流に挟まれた穀倉地帯をさして,それがギリシャ文字のΔ(デルタ)に似た平面形をしているために,そのように呼んだことに由来すると言われています.そこの地形は,ナイル川が地中海に流入するにあたり,勾配がほとんど0になり,流速がきわめて小さくなって,細かい砂や,もっと細かいシルト・粘土さえ,もはや運搬し切れなくなったため,それら細粒物質が水面下に堆積してできたものです.そのような場が,左右に動く河川の流路に沿い海の方に伸びて行き,今のような地形になりました.このようなでき方を知った上でデルタという地形をとらえると,ヘロドトスが注目した部分より外側も多少含む範囲をデルタとみる方がよく,また,ミシシッピ川が作る鳥跂状デルタや,新北上川河口の湾入状デルタなど,三角形ではないデルタがあっても不思議ではありません.  デルタの堆積は,河川が流入する水面にコントロールされます.今から約15,000年前から地球規模の温暖化に伴って起きた海面の急上昇(平均で年1cm強,最盛時には年2cm)にあたり,多くの河口部では土砂の堆積が追いつかず湾ができて,約7,000年前に海面がほぼ安定したころには世界各地にリアス海岸が出現しました.そのうち,湾の規模にくらべて河川の土砂供給が活発であったところにできたのが,現在の海面に近い高さにあるデルタです.これら現在のデルタは,当然,水面に近い低所にあり,またきわめて若く未固結の堆積物からできているので,平坦さや,水の得やすさ,水路への接近というような点で人間生活にとって便利であると同時に,水害,地盤沈下,地震動災害などを受けやすいという不便な点ももっています.  デルタの例からわかるように,地表面の性質は,その地形の平面的・立体的形状,構成物質(の種類,厚さ,性状など),(他の地形との相対的)位置関係などで決まり,それらはすべて,その地形が,どのような場で,どのようなプロセスにより,どのような歴史的経緯で作られてきたか ということの結果です.地形の名称は,地表面の自然的性質を総合して表現するもので,その名称に採用されている「かたち」は,めじるしのようなものと言えるでしょう.しかし,名称がどのようなものであれ,地形の形態的特徴は,その地形がもつ重要な属性の一つです.

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第4回 「四神のかたち
- 高松塚古墳・キトラ古墳壁画四神を中心として-」
東北大学大学院  文学研究科教授 有賀祥隆

有賀祥隆教授 四神とは天の四方の星座,またその方角を司る神をいい,星座を鳥獣に見立てた古代中国の思想に基づくもので,東の青竜,南の朱雀(鳳凰),西の白虎,北の玄武(亀と蛇が搦みあったもの)をいいます.中国の戦国時代から前漢時代に成立し,鏡・画像石・瓦当・古墳壁画などのモチーフに用いられ,六朝時代から隋・唐時代以降に朝鮮半島や日本にも及んでいます.奈良時代前期(7~8世紀)の高松塚やキトラ古墳の壁画四神図のかたちにはどのような特色があるのでしょうか.  それらの四神図のうち青竜・白虎が正倉院宝物の十二支八卦背円鏡(南倉)のように,その尾を後脚に搦めて真上に跳ね上げているのは両壁画とも共通し,新しい初唐の図像によって描かれています.しかし,朱雀の図像には2つのタイプがあります.その一つは,動勢に富む表現で,全体が長方形の中におさまるように描かれるもので,どちらかといえば,奈良・中宮寺の天寿国繍帳(622年)や法隆寺・玉虫厨子絵(7世紀)の鳳凰に近い系統のもので,古いタイプを示すもの,他は正倉院宝物の円鏡のように静止した姿で,全体が円形の中におさまる高句麗(7世紀)の江西中墓・大墓の壁画や中国・周(690-704年)の金勝村7号墓系統の新しいタイプのものがあります.キトラ古墳壁画の朱雀図は前者の系統に属します.他方,高松塚古墳壁画の朱雀図は南壁上方にあけられた盗掘口から流れ込んだ土砂で壁面が損傷を受け,残念ながら朱雀の図像を確認することはできません.

第5回 「考古学からみた物のかたちと機能
―縄文土器のかたち・弥生土器のかたち―」
東北大学大学院文学研究科教授 須藤 隆

須藤 隆教授 考古学は、現在まで残されている集落や共同墓の遺跡、住居、墓、窯、水田などの遺構、土器、金属器、木器、石器といった遺物を手掛かりとして、過去の社会、文化、宗教、生業活動などの歴史を追究する学問である。かたちの理解は、その研究の出発点となる。  ことに、土器は、様々な民族と時代に使用されており、著しく普遍性の高い資料である。ここでは縄文土器と弥生土器を取り上げ、その「かたち」を通じてそれぞれの時代を考える。このかたちを検討する考古学の基本的方法が型式学である。日本列島における土器の起源は、中国やシベリアなど大陸との交流のもとにおよそ1.2万年前にはじまる。縄文土器は旧石器時代終末期の土器を基盤に成立し、2500年頃前まで長い発展の歴史をかかえている。縄文土器のかたちは、長い時の流れの中で複雑な変化をたどる。また、地域よって多様な変異をみせる。縄文文化が発展のピ一クに達したのは中期といわれており、そのかたちも特徴的である。東北地方の晩期縄文土器は、亀ヶ岡式土器とよばれる。この土器は、縄文社会が制作、使用した土器の中で最も精巧、複雑なかたちと華麗な装飾をもつことでよく知られている。一方、弥生時代は、日本列島において稲作農耕を生活基盤とする初期農耕社会の時代である。この初期農耕社会の土器は縄文土器と異なった特色を抱え、そのかたちは、農耕生活における用途と機能と深く結びついている。また、西日本と東北地方の弥生土器を対比的にとりあげた場合、かたちや文様の上で地域性の違いがみられる。以上、縄文土器や弥生土器はそれぞれの時代の生活様式、文化、社会、宗教、経済活動を理解するうえで、かけがえのない資料であることをここであらためて指摘しておきたい。

 

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