東北大学総合学術博物館のすべて Ⅷ 「中国・朝鮮国境の大活火山 白頭山の謎」

巨大噴火の爪痕

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1.どのような噴火だったか

10世紀噴火火砕流の分布

10世紀噴火火砕流の分布 青は1回目の噴火、赤は2回目の噴火で堆積した火砕流を示す。町田(1994)に加筆して作成

白頭山周辺地域での露頭調査から、10世紀噴火の全貌が明らかとなってきました。10世紀噴火の噴出物は降下軽石-火砕流堆積物からなっており、このセットが2回繰り返されたことがわかりました。

最初に火口から噴煙が立ちのぼり、上空に軽石や火山灰を放出します。噴煙(軽石+火山灰+ガス)は周囲の空気より軽く上昇を続けますが、噴出の勢いが減り噴煙が重くなると、崩れ落ちて地表面にそって流れ下る火砕流へと変化します。この降下軽石と火砕流とが一つのセットになります。

10世紀噴火噴出物において降下軽石と火砕流のセットが2回あるということは、噴火による噴煙柱の形成が2回起こったことを意味しています。この2回の噴火での火砕流において、最初の白色の流紋岩質火砕流は高速で流れながら火山体の全周50kmの範囲を薄く(平均の厚さ1m)覆い尽くしました。2回目の火砕流は黒灰色の粗面岩(そめんがん)質火砕流で、火山体から放射状に発達した深さ20mの谷をすべて埋めつくして火口より約25kmの範囲まで流れています。この2回の火砕流によって白頭山山頂から約50kmの範囲の動植物は壊滅的な被害を受けたことは想像に難(かた)くありません。もちろんこの範囲内に集落があったとすると火砕流によって破壊され、焼き尽くされた可能性が高く、渤海王国時代に“白頭山下初洞”の村と称された奶頭山(ないとうさん)遺跡もその可能性があります。

10世紀噴火噴出物の模式柱状図

10世紀噴火噴出物の模式柱状図 赤枠で囲った部分が一つの降下軽石堆積物-火砕流のセット。火砕流の噴出物量の体積の+30平方キロメートルは遠方にとばされた火山灰の量を示す。

では、この10世紀の2回の噴火はどのくらいの時間で起こったのでしょうか。これは青森県の小川原湖のB-Tm火山灰と年縞(ねんこう)堆積物の研究から約1年と推定できます。B-Tm火山灰の間に年縞が一枚挟まれていたことがその理由としてあげられます。

このように10世紀の噴火は約1年の間に2回の大きな噴火かあり、白頭山の周辺地域の人々を翻弄させたのではないかということがわかってきました。しかし、噴火の災厄はこれのみでは終わりません。火砕流の分布域よりもさらに離れた地域では、河川地域にそって大量の土石流(ラハール)が発生しました。これは河川に流れ込んだ火砕流、噴火後の降雨、あるいは噴出物の堆積によって作られた堰止め湖が決壊したことによる洪水などによるものだと考えられます。この巨大噴火では大量の堆積物が一気に地表に噴出したために、降雨のたびにそれらから土石流が発生し、白頭山周辺の河川を流れ下り、長年にわたって下流域に洪水等の深刻な被害を与えたと考えられます。白頭山から北に約450km離れた吉林市でも厚さ1mの土石流堆積物が残されており、その被災(ひさい)地域の広さをうかがい知ることができます。

■■コラム■■

■降下軽石・降下火山灰
大規模な噴火では、大量の火山灰や軽石が放出され、噴煙は成層圏にまで達します。火山灰は偏西風にのって、遠くまで運ばれます。火山灰が堆積して雨水を含むと厚さ5cm程度でも家屋の倒壊等を引き起こします。また、土壌への灰の混入により農地は破壊され、農作物に被害をもたらします。ポンペイを埋めつくしたのも降下軽石です。

■火砕流
噴火により放出された火山砕屑物とガスの一部は、火砕流として時速約100kmの速さで山体をかけ下っていきます。火砕流は500〜700℃の高温で付近の山林を飲み込みながら進み、全てのものを破壊・埋積します。大規模な火砕流の堆積物は厚さ数10mに達し、谷や斜面を埋積して台地状の地形をつくり、これにより山容は一変します。

■土石流(ラハール)
噴火により堆積した大量の火山噴出物は、大雨のたびに川に流れこみ、土石流を発生させます。大量の土砂の流入は河床を埋め立て、下流域で大洪水を引き起こします。また、土石流は川に沿って流下するため、最も広範な地域に被害をもたらす可能性があります。

2.噴火の規模

白頭山の巨大噴火と同じ規模の噴火が蔵王山で起こったらどうなるか

白頭山の巨大噴火と同じ規模の噴火が蔵王山で起こったらどうなるか
・名取川・広瀬川に沿って仙台市に土石流が流れ込む
・蔵王の東側30km以内の地域では軽石が1m以上の厚さで降り積もる

調査研究により、10世紀噴火の総噴出物量は83〜117km3にも及ぶことがわかりました。これは、1991〜1995年の雲仙普賢岳(総噴出量0.25 km3)の総噴出物量の200倍以上にも達します。インドネシア・タンボラ火山の1815年の噴火に次いで、噴出量は有史以降最大級の噴火とされています。

白頭山の巨大噴火と同じ規模の噴火が、仙台市に最も近い活火山である蔵王山で起こったとしたらどうなるでしょうか。山形市は500℃以上の火砕流堆積物によって埋めつくされ、仙台市にも名取川・広瀬川に沿って土石流が流れ込み洪水を引き起こし、場所によっては厚さ25mにおよぶ土砂が堆積して大きな被害をもたらすことになります。噴火の始めに作られた噴煙は最大高度28000mに達し、10時間以上続くと考えられます。そして、この10時間の間に蔵王の東側30km以内の地域では軽石が1m以上の厚さで降り積もり、場所によっては東洋のポンペイとなるかもしれません。

3.いつ噴火はおきたか

青森県内における十和田火山の火山灰との関係から、白頭山の噴火は915年以降だということはわかっています。ここで問題とした渤海王国の滅亡との因果関係を知るにはより詳細な年代が必要ですが、噴火で直接に被害を受けたと考えられる中国・朝鮮の古文書中では、この白頭山の噴火を示す記述が見つかっていないために正確な噴火の年代が決まっていません。そのため他の方法によって噴火の年代を知ろうとする試みが多くなされています。

■史料による推定
中国の古文書には噴火の記録は見つかっていませんが、日本の古文書にはそれらしい記録がいくつかみられます。そのなかでも注目されていたのが「興福寺年代記」にある946年に奈良で降灰したという記録です。しかし、この火山灰の化学組成が白頭山のものとは一致しないことから、今ではこの火山灰は伊豆・神津島のものであると考えられています。この他に「日本紀略」には939年に遠方での爆発による空震があったと推測される記述や、947年に「貞信公紀」や「日本紀略」に記されている雷鳴も白頭山の噴火と関係するという説もだされています。

青森県小川原湖の湖底堆積物に観察された白頭山苫小牧火山灰(B-Tm)と十和田火山灰(十和田a)

青森県小川原湖の湖底堆積物に観察された白頭山苫小牧火山灰(B-Tm)と十和田火山灰(十和田a)。二つの火山灰の間には細かい明暗の縞模様が22枚観察されることが報告されています。

14Cウイグルマッチングの結果

14Cウイグルマッチングの結果
炭化樹木で測定された14C年代値(青)と較正曲線(赤:INTCAL98)との比較。年輪ごとの14Cを求める較正曲線と比較することにより、その樹木がたおれた年代(樹皮部分)を正確に知ることができます。(石塚ほか、2003)

■年縞編年学
青森県小川原湖での湖底堆積物の調査では、十和田火山の915年噴火による火山灰と白頭山の火山灰の間には、年縞堆積物と呼ばれる明暗の縞模様からなる堆積物が22枚挟まれていることがわかりました。年縞は特定の季節に作られることから、1枚の明暗の模様が1年に相当すると考えられております。そのため、ここでの年縞の数からは白頭山の噴火は937年から938年にかけてということになりますが、年縞は1年に2枚作られるという説もあり、その場合には926年に噴火がおこったことになります。

■14Cウイグルマッチング法
噴火によって倒された樹木からも年代が推定されています。この樹木の年輪ごとの炭素同位体を測定し、その変化から年代を求める14Cウイグルマッチングが試みられています。これにはいくつかの結果が報告されており、ドイツのグループは969±20年、アメリカのグループは1039±18年を、そして日本の研究グループは936 +8/-6年となっています。

古文書解析や、自然科学的な方法による噴火時期の推定では、いずれも936〜939年の間を示すデータが得られており、噴火の年代が決まったかのように思われます。しかし、いずれの方法でもお互いに異なった年代を示すデータも得られており、これについてはどのデータが最も正確な噴火年代を示しているのかをひとつひとつ検討していく必要があります。ただし、ここで紹介した年代値の大部分は、渤海王国の滅亡した926年よりも後を示しており、噴火は渤海王国滅亡後であり、白頭山噴火と渤海王国滅亡は直接は関係がなかった可能性が高いと考えられます。

4.噴火による影響は

白頭山の10世紀巨大噴火は、周辺に住む人々に、どのような影響を与えたのでしょう。遠く1000㎞離れた日本の北海道から東北地方にも灰を積もらせるほどですから、大きな被害があったことは想像に難くありません。それほどの噴火がなぜ古文書に残されなかったのかについては、その当時の周辺王国の政治的不安定に起因すると考えられますが、もっと簡単な解釈としては、近いところで噴火に遭遇した者は全て火砕流や土石流で命を落とし、記録を残すことができず、また、遠くで噴火を見た者は、全山ばかりでなく周囲一帯をも覆いつくす噴煙の黒雲のなかで、いったい何が起きているのか判断することができなかった、というのが正しいのではないでしょうか。

旧渤海地域の廃された県(集落)

旧渤海地域の廃された県(集落)

古文書をもとにして、渤海王国の末期と遼王国の初期の間で、人が住まなくなってなくなった集落(県)と残存した集落とをひろいだすと、火砕流の分布地域や山の南東側で厚い火山灰や軽石で埋められた地域で、なくなった集落が目立っていることに気がつきます。また、直接噴出物で覆われていない鴨緑江や北側の地域でも、なくなった集落の地域は厚い土石流で覆われていることがわかりました。このような事実は、白頭山の噴火により、周辺の集落では人が住めなくなったことを示しており、初めて10世紀噴火と人々の生活との関係が文献資料でみつかったことを意味しているのかもしれません。