河口慧海 65歳提供:宮田 恵美
                           河口慧海 65歳
「外国が今ほど身近ではなかった時代に,求道者の一心で仏教の原典をもとめて,ヒマラヤを越え,あらゆる困難に打ち勝って鎖国のチベットへ単身で入っていった河口慧海は,この旅行を全く自分の考えで,そして個人だけの力で周到すぎるほどの勉強と準備を整えて実行したのでした。ほんものの生き方を自分の力で切り拓いていく。伯父慧海からこんなことを教えられたことを私は幸せだったと思っております。」 (宮田恵美,チベット旅行記前書きより)

ポタラ宮                    撮影:小松かつ子

ポタラ宮
「その川に沿うたる遥かの空を見ますと,山間の平原の中にズブリと立って居る山がある。その山の上に金色の光を放って居るのが日光に映じてきらきらと見えて居る。それがすなわちラサ府の法王の宮殿で,ポタラと言うのです。」 (河口慧海チベット旅行記より)
チベット大蔵経ナルタン版      大正大学付属図書館所蔵
チベット大蔵経ナルタン版
「チベットのナルタン寺で開板された大蔵経(ナルタン版)は、慧海が第2回のチベット行(1904-1915)でダライ・ラマ13世から贈られ請来し、大正大学に寄贈したものである。」 (企画展図録解説より)
寂静四十二尊寂静四十二尊配置図
ダライ・ラマ13世への上書
ダライ・ラマ13世への上書(自筆草稿:チベット語)
「滞在中に日本人であることが露見する危機に陥ったため、いざという時に「自分は仏教修行の為に此国に来たのであると云ふことを証拠立てる用意」として三夜かけてダライ・ラマ13世宛に上書をしたためた。」 (企画展図録解説より)
「自分ながらその文が実に面白く出来た。この文章をもって我が熱心を顕わし,人をして感動せしむるに足るという勢いは,確かにこの文面に表れていると自分で信じたのです。」 (河口慧海チベット旅行記より)
ナーランダ寺の煉瓦       
               ナーランダ寺の煉瓦
「慧海のチベット行の主たる目的は、チベット大蔵経(だいぞうきょう)(仏教典籍の全集)の請来にあったが、またインドの仏教聖地を巡礼し、そこでの文物も持ち帰っている。それらの中には、慧海が自筆で採集した日時を書き入れている。その質朴な墨跡に慧海の人となりが偲ばれる。」(企画展図録解説より)
チベット第二法王パンチェンラマ六世の肖像
チベット第二法王パンチェンラマ六世の肖像
「タシーラーマ(パンチェンラマ)のために,漢語,英語,日本語の書物をチベット語に訳して与えたが,先方も大いに歓待の上,タシーラーマ歴代の著書と,および約束のチベット語蔵経をくれた。」(河口慧海チベット旅行記より)
菩薩像の光背裏自筆銘
菩薩像の光背裏自筆銘
「4躯は第2回のときの請来仏とみられ、そのうちいずれかの菩薩についていた光背の身光の向かって右下辺の裏側に慧海が朱筆でこれらの菩薩を入手したいきさつを書き留めている。」(企画展図録解説より)
大型サッチャ自筆銘
                大型サッチャと自筆銘
「方形の中央に尊者長寿(そんじゃちょうじゅ)を置き、四隅に左上の釈迦牟尼から右廻りに四臂観音・不動明王・白色ターラー菩薩の四尊を配する。この四尊は「カダムの四尊」と称される。諸尊や蓮華座など細部まで丁寧に入念に作られている。裏面に慧海自筆の墨書がある。この墨書から慧海がチベット第2回のチベット行(明治37年-1904-~大正4年-1915)の際にパンチェン・ラマ六世自作のものを彼の母堂から贈られたことが知られる。」(企画展図録解説より
               寂静四十二尊とその配置図
「寂静四十二尊は、中央にニンマ派の本初仏法身普賢父母仏を全裸で表わし、周囲に五仏・五仏母・八大菩薩・八供養菩薩・六道の仏・四忿怒・四忿怒妃を配する。普賢父母仏などの生々しい抱擁の表現や筆致、賦彩などから制作時期は新しい。」
「紙に黒字で寂静四十二尊の配置を記したもので、タンカと比較すると、図像上いくつかの不一致が指摘される。」(企画展図録解説より)
河口慧海の人となりを紹介するとともに展覧会全体の導入部となります。慧海のチベット行の目的を示す自筆の上書や収集品に慧海自らが書き付けた筆跡より慧海の人柄を偲び、また第2部の仏教美術資料のハイライトの一部を先行的に展示しています。

第1部 河口慧海 -人と業績-

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チベット行に旅立つ慧海