東北大学創立100周年記念理学部サイエンス展示
資料標本類が語る理学部100年の記憶

人物編

鹿間時夫

 1912-1978

鹿間時夫

 栃木県葛生町周辺には、古生代の石灰岩が広く分布しており、その石灰岩の割れ目にたまった第四紀の堆積物の中から、陸上哺乳類などの化石が多数発見されています。これらの標本は、1931-1939年に東北大学地質学教室の鹿間時夫によって詳しく調査され、ニホンムカシジカやクズウアナクマなどの新種11種を含む計61種4000点が報告・記載されました。
 これらの調査結果は1949年に東北大学理学部研究報告から論文として発表されています。葛生化石動物群は、日本の更新世の動物相を考える上で極めて重要な位置を示しています。

早坂一郎

 1891-1977

早坂一郎

 早坂一郎は、東北大学理科大学地質学教室の第一期生(1915年(大正4年)に卒業)で、古生物学の幅広い分野で活躍しました。北上山地の古生代化石研究の先鞭をつけた研究者のひとりで,多くの新種を、北上山地の古生層、とくにペルム系から記載しました。また、岐阜県赤坂金生山のペルム紀石灰岩から産する貝類化石は世界の他地域にくらべて巨大なものが多いことで世界に知られていますが、この金生山の化石の多くも早坂により記載されたものです。
 なお、宮澤賢治は岩手県花巻市の“イギリス海岸”から産するクルミ化石を早坂に送り、早坂はこれをバタグルミ( Juglans cinerea Linnaeus)として記載しました。(現在はオオバタグルミ Juglans megacinerea Chaneyとされています)。

矢部長克

 1878-1969

矢部長克

 1911年、東北帝国大学理科大学の開設と同時に、日本で2番目の地質学教室として、地質学科が開設されました。以降約100年の研究の歴史の中で、初代教授矢部長克に始まる古生物学分野の研究は多くの成果を挙げ、東北大学の名前は世界に知られています。
 矢部は、日本に近代地質学・古生物学を導入した外国人研究者の後をついで、黎明期の日本地質学を発展させた研究者のひとりです。日本の地質構造帯区分や構造発達史および古生物研究を精力的に行い、地質学教室の発展の基礎をつくりました。1953年(昭和28年)、地質学界で唯一人、「糸魚川-静岡地質構造線提唱等の地質学・古生物学研究」で第12回文化勲章を受賞しています。
 矢部は、古生物の多くの分野で活躍しましたが、アンモナイト研究やシオガマゾウの記載、北大東島でのボーリング調査においても大きな成果を挙げました。彼の研究はその後も東北大学で引きつがれています。

神津俶祐

 1880-1955

神津俶祐

 東北大学では、鉱物や岩石は加熱や圧縮によりどのように変化するのかという研究を世界に先駆けて行ってきました。これらの研究は地球の内部構造や動きを知る手がかりとなり、現代の実験岩石学や鉱床成因論、鉱物の結晶成長学へと発展しました。
 この礎を築いたのが、理学部岩石鉱物鉱床学教室の初代教授である神津淑祐です。神津は、東京大学理科大学地質学教室を卒業後、地質調査所に就職。その後、東京大学講師を務め、欧米留学の後、1916年に東北大学理科大学地質学教室の地質学第二講座の教授に就任しました。そして、1922年岩石礦物礦床学講座を創設、同講座の担当教授となりました。東北大学では火成岩の溶融実験に着手しましたが、実験方法の不備などから、岩石を用いる加熱実験を断念。その後は造岩鉱物の加熱実験に傾倒し、今日の実験岩石学の基礎を確立しました。また、1929年には岩石礦物礦床学会が発足し、この学会の初代会長も務めました。

松本彦七郎

 1887 - 1975

松本彦七郎

 松本彦七郎は、1911年に東京帝国大学理科大学動物学科を卒業し、1914年に東北帝国大学理科大学地質学古生物学教室講師、1922年に同教室の教授となりました。東京大学在学中には、クモヒトデ類の分類学的研究を行い、数多くの新種を記載しました。東北大学に在任中は、主に古脊椎動物学に関する研究を精力的に進め、センダイゾウやシオガマゾウなどの記載研究や、日本やアジアの哺乳類化石の比較検討を行いました。また、宮城県の里浜貝塚などにおいて、地層の順序を考慮した発掘方法を考古学に導入し、その後の考古学基礎研究の発展に多大な貢献をしました。
 戦後も、岩手県の花泉遺跡を発掘し、ハナイズミモリウシの記載研究を行うなど、数多くの業績を残しました。これらの研究業績が認められ、1921年に帝国学士院賞を受賞し、1966年には勲三等に叙せられました。

半澤正四郎

 1896 - 1983

半澤正四郎

 1921年に第1回生として東北帝国大学地質学古生物学教室を卒業後、研究助手として教室に残り、矢部長克の協力を得てインド-太平洋産の大型有孔虫の研究を進めました。当時、大型有孔虫は「殻の構造精巧複雑を極めたる種類で、其多くは標準化石となり」として地質時代を知るうえで極めて重要な手掛かりと考えられていました。そのため、大型有孔虫を求め、琉球列島をくまなく踏査し、その後、台湾、フィリピン、ボルネオ、マレーシア、ミクロネシアへと調査範囲を広げ、1934年には北大東島での深層ボーリング調査を実現しています。これらの卓越した業績に対して、1938年に理学博士号が授与されました。また、1927年には、日本人古生物学者として初めて海洋調査に乗り出し、日本海洋地質学の最初の一歩を踏み出しています。
 戦後になると、北海道と東北地方の地域調査を精力的に進め、多くの地質学的貢献を果たしました。退官も近づいた1958年には、2度目の米国留学を果たし、自らの大型有孔虫研究をまとめ、1968年にその総決算として大著「大型有孔虫」を出版しました。
退官後、かねてから関心を抱いていた小型浮遊性有孔虫の模型づくりを自宅で開始し、完成した模型は世界的に有名なドルビニー模型よりも大きく、直径10cmに近いものとなりました。この世界に類のないコレクションは当標本館に展示されています。

浅野清

 1910 - 1990

浅野清

 1935年に東北帝国大学地質学古生物学教室を卒業し、大学院に進学した。1938年に大学院を中退し、南洋庁熱帯産業研究所の嘱託としてパラオに赴きました。当時、石油などの地下資源開発の需要から欧米の学会では、小型底生有孔虫による年代層序学が研究者の関心を集めていました。浅野は、中退までのわずかの間に27編もの小型底生有孔虫に関する論文を発表し、その生涯にわたる多作ぶり発揮し、日本での研究の立ち遅れを挽回しました。
 終戦からいくらも経たない1950年には、早くも525種を収録する「日本産第三紀小形有孔虫図録」を出版し、国際的にも注目を集めています。1953年には「松川浦総合研究」を立上げ、「有孔虫研究連絡会」を設立、「有孔虫」を創刊し、若手研究者の育成と地質学研究の新しい展開を主導しました。1958年には、急速に発展する浮遊性有孔虫による年代層序を、他にさきがけて広域対比に適用することで、日本の新生代化石帯区分の分野に先鞭をつけています。
 浅野は約160編の論文や著書を発表しています。これまで日本で報告された新生代の小形有孔虫の新種は約1000種といわれますが、その1/3が浅野によるものです。彼によって研究された2万点を超える有孔虫標本のすべては、これからの分類研究のため「浅野コレクション」として当標本館に保存されています。

畑井新喜司

 1876 - 1963

畑井新喜司

 東北大学理学部生物学教室の畑井新喜司は、1934年パラオに設立された熱帯生物研究所の初代所長として、たくさんの若き学徒たちと共にサンゴ礁に生息する様々な生物に関しての研究を展開しました。それまでにない新たな視点から生態学的、分類学的研究をはじめとする多様な生物学研究を行ない、その成果は世界的にも高く評価されました。
 畑井は理学部付属浅虫臨海実験所(現:大学院生命科学研究科附属浅虫海洋生物研究センター)の初代所長でもあり、所内の石碑に「それは君 大変おもしろい 君 ひとつやってみたまへ」と刻まれています。これは畑井の口癖 であり、多くの門下生たちが育った情景を今に伝えています。

野副鐵男

 1902 - 1996

野副鐵男

 野副鐵男は、台北帝国大学在任中の1936年に、不飽和七員環構造をもった4-イソプロピルトロポロン(炭素原子7個が環をつくってならぶ物質の化合物)を世界ではじめて発見しました。1948年に東北大学赴任後もトロポロンの関連化合物の研究を継続し、1968年の退官まで「トロポノイド化学」という新分野の開拓者として輝かしい業績を残しました。1958年には「ヒノキチオールおよび関連有機化合物の研究」で第17回文化勲章を受章しています。
 総合学術博物館には、トロポノイドやアズレノイドなどを中心に、野副研究室で合成された化合物と共同研究者から提供された化合物からなる、世界的にも貴重な計2,300点の非ベンゼン系芳香族化合物資料が保管されています。