粟野観音像

公開施設、記念碑等

粟野観音像と粟野健次郎/1935(昭和10)年9月6日撮影
二高三神峯校舎と粟野観音像/1948(昭和23)年頃撮影
第二高等学校 教官・生徒記念撮影/(2列目左3人目から)瀧川亀太郎、武藤虎太、三好愛吉校長、粟野健次郎、(1人略)、土井晩翠
粟野健次郎先生の授業風景/1924(大正13)年頃撮影

粟野観音像

【解説文】
 この観音像は二高名誉教授粟野健次郎先生の記念像である。先生は元治元年一関藩士の家に生まれ、明治二十三年には弱冠二十六歳で第一高等中学校教授に任ぜられ、 ついで明治二十五年第二高中学校教授に迎えられた。爾来昭和七年に至るまで実に四十一年の長きにわたって一路二高で英語を教え、 その間無類の学識、卓抜な警句、超俗の風格をもって幾千の二高生を傾倒せしめ、全二高生の敬慕の的であった
 先生の致仕に際し、同窓会員は肖像を造ってその功績を長く後世に顕彰しようとしたが、世の名聞に恬淡たる先生は自己の像を 遺すことを許されなかった。よって知識と慈愛の権化たる観音像をもってこれに代えることにし、帝展審査員国方林三に嘱して、中宮寺如意輪観音を模した 観音像を造って校庭に安置した。台石には荒巻山屋敷産の重量一万貫の巨石を選び、二高の校風である雄大剛健の意をあらわした。 二高生はこれを粟野観音と愛称、朝夕先生を偲んだ。
 戦後二高の三神峯移転、教養部の川内移転に伴って三神峯、川内に移され、昭和五十三年十月最初の位置(雨宮)に復したが、 雨宮の青葉山移転に伴い、令和四年八月、二高創設の地である片平に移された。  この名板は経年劣化により移設が叶わなかった台石の一部に設置している。

令和四年八月
国立大学法人 東北大学

アクセス

D 正門から片平丁通りを東に進む(旧制第二高等学校正門付近)