中善並木

公開施設、記念碑等

1975(昭和50)年5月撮影
中川善之助
中川善之助(法文学部教授)ほか法律研究会メンバー/1951(昭和26)年頃
法文学部教員(中川善之助、木村亀二、中村吉治、高柳真三)
有朋寮2年生の送別コンパ(中央に中川教授)/1960(昭和35)年2月1日

中善並木

 「中善並木」は、民法学の泰斗・中川善之助名誉教授(1897-1975年)の退官を記念して整備されました。
 附属図書館の向かい、「三太郎の小径」と萩ホールの間の区画に置かれた石碑に刻まれた碑文「中善並木 若き日の友情と感激のために 1961.3.31 中川善之助」は 中川先生自身の揮毫によるものです。当初は楢の木からなる並木道でしたが、その後、川内構内の工事に伴い並木は移転されることとなり、卒業生からの寄付を募って現在の萩ホールと 附属図書館の間の桜並木として整備されました。

 中川先生は、「中善」の愛称で慕われ、反骨の人、人間愛に充ちた人として尊敬され親しまれていました。「中善並木」はそうした先生の人柄を象徴するような記念碑といえるでしょう。 1960年の春、同年秋に開催される学園祭で法学部の一年生が焼鳥屋の出店を計画しました。しかし大学祭実行委員会から知性のない企画であることを理由に出店を拒否されます。 委員会と協議を重ねますが決定は覆らず、学生たちは中川先生の人柄と評判を聞き、焼鳥屋の亭主になってもらえるよう先生の研究室「北向きの部屋」を訪ねました。 学生たちの話を聞いた中川先生は「大学生には知性が必要だが、知性だけが人間を作りあげるのではない」と言って焼鳥屋「法一亭」の亭主となることを承諾し、 大学祭に出店することが許可されました。「法一亭」は大学祭の”華”と言えるほどの盛況ぶりだったそうです。そこで得た収益は、川内構内に楢の若木を植樹するために用いられ、 「中善並木」と名付けられました。この名称には、学生の気持ちを理解し、希望と自身を与えてくれた中川先生への感謝の念が込められています。

 中川先生が仙台を去った後、法学部の学生たちは「中善並木」起点として東京の中川邸をゴールとする約400kmの徒歩旅行を計画します。この旅行はその後8年間にもわたって後輩たちに 受け継がれ、中川先生との交流が続きました。

アクセス

C01D01 附属図書館と萩ホールの間の並木